一碧楼水口屋物語

幕末から明治期に大変革の波が襲った。興津の町では参勤交代の大名行列の宿泊を一手に引き受け恩恵を得ていた本陣、脇本陣は、制度崩壊で多大の影響をこうむった。

各宿場町で廃業が相次ぐ中、脇本陣であった水口屋の主人望月半十郎は「古いのれん」に未練を残さず、街道を行き交う庶民を顧客相手に商売を切り替えはじめた。


彼の提案で、品川宿から伊勢に至る旅館の組合「一新講社」ができあがり、伊勢詣の客の誘致に成功し組合の旅館は繁盛したという。

やがて東海道線が静岡まで開通し興津駅ができると、風光明媚な海岸を愛でた海水浴客で賑わい避暑地の名声を得ることになった。

一方、水口屋にしばしば逗留した政治家後藤象二郎をきつかけに、元勲たちが相次いで避暑地、避寒地として訪れ、別荘を建てたりした。明治29年、元老井上馨は、長者荘を建てた。その井上訪問のため伊藤博文、山県有朋らが水口屋に宿泊した。

また文豪夏目漱石、正宗白鳥、高山樗牛らも訪れ興津を題材にした作品を残している。また志賀直哉も「興津」を発表した。


大正8年、元老西園寺公望は、別荘「坐漁荘」を建てた。天皇の信頼も厚く、政財界の事情に詳しい西園寺公を訪ねる「興津詣で」が多くなり、訪問客の宿泊で水口屋は、しだいに高級な旅館と変貌していった。

やがて「軍靴の響き」が、日増しにつよくなり、「5.15事件」「2.26事件」が相次いで起こり、「坐漁荘」と興津もゆれ動いた。

昭和16年12月大東亜戦争が勃発、末期の昭和20年7月には井上邸「長者荘」が空襲で焼失した。


水口屋の歴史の中で重要な一ページは、昭和32年の天皇皇后両陛下の静岡国体ご臨席の際のご宿泊であろう。10月25日より27日までご滞在で、今その時のご使用の品、献立表などを見ることができる。

その後、興津の海岸が埋め立てられ、巨大な清水港興津埠頭ができ、風景は一変した。

そして昭和60年「一碧楼水口屋」は、400年余の歴史の幕を閉じた。現在、その一角に「水口屋寄贈のギャラリー」がある。