広重と東海道五十三次

広重は寛政9年(1797)江戸の定火消同心の子として生れた。
13歳にして、両親を失い定火消同心職を継いだが、絵の好きな少年につとまらず職をゆずって、15歳のとき歌川豊広の門に入った。

少年は広重の名をもらい、美人画、武者絵、役者絵を描いた。師匠の死で自由をえた広重は、天保2年(1831)風景画の処女作「東都名所」10枚揃を出したが一応の評判をえただけであった。

天保3年夏、幕府が朝廷に御馬を献上する八朔御馬献上儀の旅に、広重も加わりこの模様を写生した。このスケッチをもとに「東海道五十三次続絵」を保永堂より出版した。

広重の東海道は爆発的人気をよんだ。

当時、葛飾北斎はすでに東海道の作品をだしていた。北斎は旅行して描いたものでなく想像画であった。

これに対し広重の風景画は、雨にけむる風景、かすみにかすんだ野山、雪の静けさなど日本の叙情性をたっぷりふくんでいた。

この「保永堂東海道」の成功は広重の名を決定的なものにした。

以来「行書東海道」「隷書東海道」をはじめ、40種ちかくの東海道物を出した。それでも「保永堂東海道」は広重の出世作であり代表作である。

「広重は素晴らしい印象派だ。わたしとモネとロダンは、すっかり心を奪われている・・・」印象派の中心人物の一人カミーユ・ピサロは、広重の風景版画との出会いをこのように書き残している。

印象派の巨匠たちに、新鮮な驚きと影響を与えたのだ。

歌川(安藤)広重は、享年62歳で世を去ったが、東京都足立区伊興町前沼の東岳寺に静かに眠っている。


引用文献
「広重 東海道五十三次」 著者 近藤市太郎
発行 平凡社
画像所蔵 東海銀行