田沼街道


瀬戸川・勝草橋西袂(藤枝市) ⇒ 田沼(藤枝市) ⇒ 高柳(藤枝市) ⇒ 兵太夫(藤枝市) ⇒ 大新島(藤枝市)  

⇒ 上新田(大井川町) ⇒ 富士見橋の海岸側で大井川を渡る ⇒ 湯日川橋(吉田町)

 ⇒ 勝間田川左岸・川崎湊(榛原町) ⇒ 大鐘家(相良町)  ⇒ 萩間川・湊橋(相良町) ⇒ 相良城址(相良町)


徳川10代将軍家治時代の老中田沼意次が2回目のお国入りの際の帰り道に寄り道をしたルートで後に田沼街道と呼ばれるようになりました。
田沼意次は将軍の許可がなければ江戸を離れることが出来ない定府大名であったのでお国入りは生涯に2回だけでした。

勝草橋西袂で東海道に合流 田沼街道の藤枝口
大鐘家の前が街道 湊橋(田沼街道の相良口)
相良町のエピソード


(1)相良の根上がり松

別名2階松といわれ樹齢240年の老木で、伊勢湾台風の被害で3本は枯れて現在2本残っている。
1707年(宝永4年)の大津波の時に根元の砂がさらわれて根が地上に出ています。
大きい松の根元は4m近くが地上に表れています。

(2)相良の陣太鼓

田沼意次の全盛期の頃に海賊が相良に押し寄せてきた時に田沼家の家臣が背負って小山に登ってドーンドーンと打ち鳴らして海賊を退散させたとのことです。
太鼓の音は浜松・駿府まで聞こえたとのことです。
陣太鼓の中に金塊が詰まっていると言われていた為、1913年(大正2年)に泥棒が太鼓の皮を切り裂いてしまいました。
破れた太鼓が相良町大沢の般若寺に納められています。


田沼意次のプロフィール

1719年7月(享保4年) 300俵の旗本田沼意行の長男龍助として誕生。
1734年3月(享保19年) 龍助15才、9代将軍家重の小姓となり300俵。
1735年3月(享保20年) 龍助16才元服し意次となる。
1758年11月(宝歴8年) 意次39才、相良藩主となる。(当時10000石)
1759年2月(宝歴9年) 意次40才初のお国入り。
1760年9月(宝歴10年) 家治公10代将軍となる。
1767年7月(明和4年) 意次48才、御側用人となる。(当時20000石)
1772年1月(明和9年) 意次53才、老中となる。(当時30000石)
1780年4月(安永9年) 意次61才、相良城落成し2度目のお国入り。
1783年7月(天明3年) 意次64才、浅間山大噴火、天明大飢饉。意知若年寄。
1784年3月(天明4年) 意次65才、意知(36才)殿中で佐野政言に刺され翌年死亡。
1786年8月(天明6年) 意次67才、将軍家治死す。老中罷免(当時57000石)
1787年10月(天明7年) 意次68才、蟄居所領没収。孫意明奥州下村へ移封。
1788年7月(天明8年) 意次69才にて死去。相良城取り壊し。

相良の根上がり松 相良の陣太鼓