明治41年 主催 時事新報社 それまで、芸者さんらの人気投票はあったが、良家の子女のみを集めたコンクールは最初であり時事新報社だけで、七千人を集めたという。 審査員に、洋画家 岡田三郎助、写真家 大築千里、女形 中村芝(し)かん、人類学者 坪井正五郎らの名前がある。
この時、第一位になった末弘 ヒロ子(福岡)は、16才、小倉市長の娘で当時学習院中等科3年生だった。 彼女は、世界美人コンクールでも、堂々の6位入賞であった。 当時の趣意書は 新興の日本帝国は、一事一物決して 人後に落つべからざるのみならず、場合によりては自ら進んで大いに薦むるの必要あるに当り、あたかも良し、此挑戦状は、我に与ふるに絶好の機会を出てせるものに非ずや。(中略)この時集めた美女たちの写真は写真集になった。 その前説に 比帖載するところは、ことごとく良家淑女の真影にして、いやしくも容色をもって職業の資となすが如き品下れる者に非ざるが故に、観者は相応の礼意をもって之に臨むよう・・・・当時、乃木希典大将が院長だった学習院では、大問題になり、末弘は退学させられた。もっとも乃木院長はヒロ子を、自分が仲人になり、野津道貫元帥の子息と結婚させるという大岡さばきをみせたという。 引用文献 文芸春秋デラックス「目で見る女性史 日本の美人たち」(昭和49年9月発行) |